音楽は誰のものだ?──著作権という名の「取り立て」と現場の現実
はっきり言う。
今の著作権の運用は、
音楽を守っているのではなく、音楽を締め付けている。
ある知人のコンサートの映像をDVDにしようとした。
たった10枚。身内に配るだけの記念だ。
だが調べてみると、著作権処理で数万円、場合によっては十万円。
10枚のDVDに、だ。
冗談じゃない。
これでどうやって音楽文化が広がるのか。
一方で現実はどうだ。
- 学校の発表会
- 地域のイベント
- アマチュアバンド
- 個人のYouTube
世の中はカバーだらけだ。
厳密に言えば、著作権違反だらけでもある。
だが誰も全部は取り締まらない。
なぜか?
取り締まれないからだ。
つまり制度はすでに、現実に対して機能していない。
さらに言えば、金の流れもおかしい。
JASRACの分配は年間1400億円規模。
だがその中身は、完全なピラミッドだ。
ごく一部のヒット作家が取り、大多数の曲にはほとんど回らない。
平均値など意味はない。
現実は「上だけが潤う構造」だ。
そして一番腹が立つのはここだ。
音楽を現場で生かしているのは誰だ?
作曲家か?
違う。
- カバーしている演奏家だ
- ライブで演奏している人間だ
- 教室で教えている先生だ
- SNSで広めている個人だ
彼らがいるから、曲は生き続ける。
つまり演奏家は、文化の運び屋であり、増幅装置だ。
なのに現実はどうだ。
- 支払うのは演奏家
- 管理されるのも演奏家
- 場合によっては違反者扱い
冗談じゃない。
音楽を広めている側が罰せられ、
ほとんど使われていない曲にも一律に網がかかる。
これを文化保護と呼ぶのか?
違うだろう。
これはもう、
「管理しやすいところから取るシステム」だ。
もちろん著作権そのものは否定しない。
もし完全に無ければ、資本の強い側が作品を食い尽くす。
それは違う。
だが今の問題はそこではない。
問題は、
制度が肥大化し、現場を圧迫していることだ。
本来あるべき姿はこうだ。
- 商業利用にはしっかり課金
- 小規模・非営利には柔軟性
- カバーや演奏を文化貢献として評価
だが現実は逆だ。
小さい現場ほど縛られやすい。
そしてもう一つ言う。
著作権は昔からあったものではない。
数百年前には存在しなかった。
音楽は、
- 真似され
- 演奏され
- 広まり
そうやって育ってきた。
つまり本来は、
コピーされることで価値が上がるものだった。
それを今はどうしているか。
- コピーするな
- 配るな
- 許可を取れ
- 金を払え
ここまで管理して、文化が豊かになると思っているのか?
はっきり言う。
今の状態は、
音楽のための著作権ではない。
著作権のための音楽になっている。
音楽は本来、もっと自由だ。
誰かが歌い、
誰かが弾き、
誰かがまたそれを真似する。
その連鎖が文化だ。
その流れを止めているものがあるなら、
それは見直されるべきだ。
■ まとめ
音楽は誰のものか。
作った人だけのものではない。
演奏する人のものでもある。
聴く人のものでもある。
そのバランスが崩れたとき、
制度は正義ではなくなる。
今の著作権の在り方は、
そのバランスを本当に保っているのか。
一度、冷静に問い直すべきだと思う。
.png)
-300x300.png)